『広島 抗いの詩学』早稲田大学読書会の記録

広島 抗いの詩学』について、早稲田大学の五味渕典嗣先生主催で2022年5月1日に院生向けの読書会を開催頂きました。川口隆行さんの前著を踏まえた充実の報告と応答で、素晴らしい読書会だったと感じました。特に、学生の皆様がそれぞれにご自身の問題に引き寄せて考えておられたのが何より印象的でした。
本書が2022年にどのように読まれ、受けとめられたかを記録しておきたい、という小社の希望を汲んで頂き、早稲田大学教育学研究科博士後期課程2年本橋龍晃さんが印象記を執筆くださいました。許諾を得て、以下に全文をご紹介いたします。
本橋さん、貴重な記録を残して頂きありがとうございます。
五味渕先生、川口先生、ご報告者の何雅琪さん、石井要さん、ご参加者の皆様、この度はありがとうございました。

川口隆行『広島 抗いの詩学ー原爆文学と戦後文化運動ー』
読書会印象記

早稲田大学教育学研究科博士後期課程2年 本橋龍晃

 私事ではあるが、数年前、広島の平和記念資料館を初めて訪れた。そこで、第二次大戦当時の広島に住んでいた方の講演を拝聴する機会があった。内容もさることながら、「現前性」といってはあまりにも陳腐に聞こえてしまうような語りの力に圧倒されたことを、今でも鮮明に覚えている。もちろん、語られた事柄は当時の「ありのまま」の記憶ではないし、取捨選択、再構成されたものであることは言うまでもない。だが、私にとっては、こうした理解がどこかへ吹き飛んでしまうような体験だった。語る主体や声の力に自分が揺さぶられるような、そんな時間だった。

 川口氏のご著書を読んでいてひしひしと感じたのは、核や原爆にまつわる文学、歴史、言説を見ていく上で、それらを紡いできた人々とどう向き合うのか(/向き合いうるのか)という真摯な問題意識だった。だからこそ、読書会当日に氏が述べられたことの中で特に印象的だったのは、『広島 抗いの詩学』における方法論であった。前著となる『原爆文学という問題領域』では、原爆文学というジャンルが、戦後日本(主に1960〜70年代)の言説空間を構成した問題領域のひとつとして把握されている。そのため、言説分析を軸にした論の展開となっていた。一方、本著では、言説の「奥」にいる主体に寄り添いながら作品が精緻に分析されている。これは、広島という地に身を置いて、当事者や遺族の方たちと接していく中で起きた方法論的な変化だという。
翻ってみれば、文学研究を取り巻く昨今の状況下では「成果」を挙げることに汲々とするばかりで、言説や人との出会いに立ち止まってみること、葛藤や変容が起きてしまうことそれ自体が、ともするとネガティブにも捉えられてしまう。だが、言説研究だけではやりきれないことがある、という氏の気づきは、文学研究全体で引き受けていかなければならないはずである。

 以上のような氏の言葉を引き出したのは、当日リポーターを務めた何雅琪氏と石井要氏を中心に、対面あるいはオンラインで参加した方々の、熱意のこもった質問だった。特に、何氏はサークルどうしのネットワークや『われらの詩』、『われらのうた』などのメンバーや言説の位相について問題提起していた。本書の第一部では1950年代広島のサークル運動が論じられているが、サークル現象は占領期という時代状況を抜きにして考えることはできない。こうした時代状況の中で、ある種の知識人たちや言葉に精通した書き手たちが主に中央との回路を保ちながら雑誌を生み出していったという。中央と地方の交流は比較的多くみられるが、地方間の交流はそこまで活発ではなかった。このことを踏まえれば、中央という特権的な場所の問題規制を浮かび上がらせるだけでなく、『新日本文学』などの雑誌が地方にどのような影響力を持っていたのかを明らかにすることにも繋がるという。

 また、石井氏はヒューマニズム言説や動物論に対する論者の位置に焦点を当てた。石井氏によれば、本著は単に動物への暴力を批判的に捉えただけでないという。動物を記述する書き手が自己変容しながらも描き続け、周囲の変容をも促す点に特徴があるというのだ。暴力性という点で言えば、「被爆者」とされる人々のテクストを分析し、読み替えるということの「暴力性」に関してどう考えるのかというフロアからの質問があった。川口氏は、対象によって生じる、論じることのためらいは持ち続けている。だが、時間の経過と共に当事者たちがいなくなってしまい、核や原爆をめぐる議論そのものが消えてしまうことへの危機感が著者にはあるのだという。川口氏自身もまた、研究する中で様々な問いに向かい合い、揺らぎを抱えながら作品に向き合っていったのではないか。そう感じさせる応答だった。

 くわえて、詩や手記といったジャンルの問題についても、フロアとのやり取りの中で、様々な意見が交わされた。例えば、俳句との違いやテクスト選定の基準についてが取り上げられた。その上で、本著はある種のエクリチュール論であり、だからこそジャンルを不問にした研究となっていることが浮かび上がった。
 このほか、資料や広島の方々との出会い、記録と記録文学の違い、1950年代と1970年代をどう捉えるかなど、提出された論点は多岐に亘った。先にも少し触れたが、現在は人文学領域の学術書を出版すること、ひいては人文学研究そのものの基盤が揺らぎ、その意義が問われている。こうした中でも、著者ご本人だけでなく琥珀書房の山本氏にもご参加いただき、広島大学と早稲田大学を繋ぐハイブリット形式の読書会が開催されたことは、研究という営みの楽しさと醍醐味を味わうまたとない機会だった。様々なネットワークの中で研究が生み出されるということだけでなく、人と人との出会いこそが本や研究に新たな光を当ててくれるということを、改めて実感した1日だった。
(2022年5月1日 於早稲田大学・Zoom)