近代日本における主要無産政党の機関紙を残す取組が本企画にて完結。
大原社会問題研究所創立50周年の際に刊行された左派無産政党資料集、同所創立100周年を契機に刊行された右派無産政党資料集。
これらの歩みを完結させる形で、戦前〜戦中〜戦後の日本社会、政治の重要な一面を貫く貴重資料である中間派無産政党の機関紙をついに刊行する。
昭和のはじめ、初めてとなる普通選挙実施を前に無産政党関係者も大きな動きを示す。左右両極(労働農民党・社会民衆党)に一線を画することを標榜し、「混乱と腐敗と絶望に陥れる我国社会運動の戦線に、『正当確立』の旗色高く、日本労農党は生れた」と宣言し結成された中間派無産政党、日本労農党。「徹底普選運動」(選挙権の拡大、規制撤廃)「生活権擁護運動」(生存権の社会的保証)「既成政党打破」(資本家を背景にした既成政党との闘い)という「三運動」を掲げ昭和の政治史において狼煙をあげた。
その後、右派の日本農民党・左派の無産大衆党、九州民憲党・中部民衆党・信州大衆党などの地方無産政党を合わせた全七党の一大合同により日本大衆党がうまれる。その後、さらなる合流を経て全国大衆党が結成。その後、全国労農大衆党として単一無産政党誕生前の大きな勢力となっていく(党員数約56000名、衆議院議員3名)。結党まもなく生じた満洲事変に対し、即時撤兵と「対支内政絶対非干渉」を要求する声明書を出すなど時流に抗する動きを示しながら、国家社会主義との対峙方法を模索する中で、翼賛体制の中に組み込まれていった。
戦後、中間派無産政党で機関紙活動に携わった人々の多くは戦後革新政党である日本社会党において党内右派の系譜へとつながり、戦後政治においてもその重要性は特筆される。
書籍概要
【復刻版】中間派無産政党機関紙集『日本労農新聞』『日本大衆新聞』『全国大衆新聞』『全国労農大衆新聞』
発行:日本労農党本部、日本大衆新聞社、全国大衆新聞社、全国労農大衆新聞社
- 解題・解説:立本紘之(大原社会問題研究所)・福家崇洋(京都大学)・杉本弘幸(京都府立京都学・歴彩館)・渡部亮(成蹊大学)
- 推薦:有馬学
- 定価: 各巻90,000円。全2巻、分売可。揃本体定価180,000円+税
- ISBNコード:第1巻(『日本労農新聞』)978-4-910993-60-7、第2巻(『日本大衆新聞』『全国大衆新聞』『全国労農大衆新聞』)978-4-910993-61-4
- 体裁: A3判上製、全2巻+別冊(B5判)、本体総約650頁
(別冊にて、解説・総記事見出し一覧を付す。❋各巻いずれかの購入者には、別冊を無償でお付けします。) - 原本: 大原社会問題研究所、国立国会図書館憲政資料室、東北大学附属図書館、富士見市立中央図書館渋谷定輔文庫、個人蔵
- 協力:無産政党資料研究会(法政大学大原社会問題研究所)
推薦文より
中間派無産政党、それこそは社会党的なるものの歴史的核心だ
今回の中間派機関紙の復刻事業は、大原社会問題研究所が組織した無産政党資料研究会のプロジェクトの成果であり、これによって無産政党機関紙の復刻は一応の完結をみた。その意義はきわめて大きい。
中間派無産政党とは、労働農民党から社会民衆党が分立した際に、麻生久、三輪寿壮、浅沼稲次郎らが、社民党に加わらずに結成した日本労農党を源流とする。しかし、後に日労系と称される彼らは、自己の党としての組織的拡大に専念したわけではなく、通奏低音のように持続的に存在した単一無産政党への欲求を背景に、無産政党再編成の核として機能し続けた。
今回復刻された機関紙名は、そのまま日労系を核とする離合集散の経緯を示しており、社会大衆党の結成と『社会大衆新聞』につながることでひとまず完結する。『社会民衆新聞』と『社会大衆新聞』という前回の復刻事業とあわせて、ようやく戦前期無産政党機関紙の全体像がつながったことになる。
このような離合集散が示すものは、戦前期日本政治のごく一部をなすコップの中の嵐にすぎないのかといえば、そうではない。無産政党の党派間の政治を超えて、その背景には、労働者農民の要求を代表する単一政党という、知識人から一般大衆に至る広汎な願望が存在した。中間派という存在形態には、左右両翼からは不満、批判が集まるが、統一政党を求める有権者の願望は、左右どちらも代替できない。かくして中間派は、無産政党合同の核であり続けるが、合同の結果成立した政党は、常に左右を抱え込んだ複雑な党内政治に直面せざるを得ない。それは戦前・戦中の社会大衆党と、そのやり直しである日本社会党につながるものであった。
日本社会党は最後までこの問題を克服できないまま終焉したとも言える。正統的な社会民主主義や、それを時代に適合させようとする試みは、繰り返される左翼への回帰によってことごとく失敗した。中間派という存在によって成立可能となり、中間派という存在によって党内ガバナンスが不全となる、戦前無産政党・戦後社会党をつらぬく日本革新政党の不思議は、中間派の解明を欠いて説明はできないだろう。大原社研はアーカイブとしての成立経緯から、中間派の史料の宝庫である。今回の復刻によってまた一歩、研究条件の整備がなされたわけである。
複雑な離合集散を体現した機関紙であるから、読み解くにはそれなりのリテラシーが要求される。ぜひ別冊となる解題・解説を参照されたい。ちょっと可愛げがないと言いたくなるほどの、行き届いた懇切丁寧な仕事である。
有馬学
政党関係者(主要政治家・関係者)
浅原健三・浅沼稲次郎・麻生久・石山寅吉・今村等・織本利・加藤勘十・河上丈太郎・川俣清音・菊川忠雄・河野密・鈴木茂三郎・角田藤三郎・高山久蔵・田部井健次・田所輝明・棚橋小虎・田原春次・中沢弁次郎・平野学・平野力三・松谷与二郎・松本淳三・水谷長三郎・三宅正一・宮崎龍介・三輪寿壮・山崎今朝弥・山名義鶴・吉田賢一
機関誌編集体制
日本労農党機関紙部(1928年11月)
部長…平野学
常任部員…粕谷忠雄・松本淳三
部員…福田狂二
編輯委員…内田佐久郎・川俣清音・川出雄次郎・河野密・田所輝明・後藤貞治・北耕助・清水武雄
日本大衆党機関紙部(1928年12月)
部長…河野密
主任…松本淳三
経営部員…田所輝明・平野学・福島一郎・田村勘次
事務部員…粕谷忠雄・川出雄次郎・今里勝雄・西本喬・江森盛弥・吉田龍次郎
広告部員…粕谷忠雄・高梨二夫・館谷忠雄
全国大衆党機関紙部(1930年)
部長…河野密
編輯主任…角田藤三郎
営業主任…田原春次
常任部員…藤野光弘
機関紙部員…木村毅・岡田宗司・田所輝明・平野学・松本淳三・岩崎正三郎・猪俣猛
全国労農大衆党機関紙(1931年12月)
部長…平野学
編輯部主任…藤野光弘
営業部主任…田原春次
編輯部…河野密・田所輝明・ 岡田宗司・松本淳三・山花秀雄・増田毅山・鈴木茂三郎・角田藤三郎
営業部…酒井精一・渡邊弘・高橋長太郎・磯崎真助
著者(別冊・解説)プロフィール
立本紘之(たてもと・ひろゆき)
1979年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、法政大学大原社会問題研究所兼任研究員、独立行政法人国立公文書館調査員。
主な著作に『転形期芸術運動の道標――戦後日本共産党の源流としての戦前期プロレタリア文化運動』(晃洋書房、2020年)、「社会民衆党・社会大衆党の無産者芸術・文化へのまなざし」(『大原社会問題研究所雑誌』740号、2020年)、「戦前期無産政党における「書記長」・「書記局」の成立・変遷についての一考察」(榎一江編『無産政党の命運 日本の社会民主主義』(法政大学出版局、2024年))などがある。
福家崇洋(ふけ・たかひろ)
1977年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。博士(人間・環境学)。
現在、京都大学人文科学研究所准教授。
主な著作に『日本ファシズム論争 大戦前夜の思想家たち』(河出書房新社、2012年)、 『満川亀太郎 慷慨の志猶存す』(ミネルヴァ書房、2016年)、共編『思想史講義』(ちくま新書、2022、2023年)などがある。
杉本弘幸(すぎもと・ひろゆき)
1975年生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。
現在、京都府立京都学・歴彩館研究員、京都芸術大学大学院特任准教授。
主な著作に『近代日本の都市社会政策とマリノリティ―歴史都市の社会史』(思文閣出版、2015年)、『戦後失業対策事業・失対労働者史料集成』(近現代資料刊行会、2024年~刊行中)、『ヨイトマケとニコヨンの社会史―戦後失業対策事業・失対労働者研究序説―』(小さ子社、2025年刊行予定)などがある。
渡部亮(わたべ・りょう)
1995年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)
現在、成蹊大学文学部現代社会学科助教。
主な論文に「昭和新党運動の重層的展開―社会大衆党の「国民の党」構想を中心に―」(『史学雑誌』第132編2号)、「選挙粛正運動の二つの顔―社会大衆党の議会観を手掛かりに―」(『日本歴史』第899号)などがある。
版元から一言
本企画にて、戦前の主要無産政党の機関紙復刻が完了となりました。
随分と前に大原社研にうかがってお話を聞いて、そのまま、大原社研創立一〇〇周年記念事業を目指して刊行にいたったことが懐かしく思います。
(右派無産政党資料集:『社会民衆新聞』『社会大衆新聞』復刻版、三人社)
戦前の無産政党の離合集散については、政党の名前は類似していることもあって大変にややこしい印象でございますが、
その中でも「中間」ということで一層「はて?」と思う方もいらっしゃるかと思いますが、一番最初の企画当初から「出すなら中間派」という声をいただいておりました。
有馬先生の推薦文にもありますが、「労働者農民の要求を代表する単一政党という、知識人から一般大衆に至る広汎な願望」という現代日本にも通ずるであろう一つの「目標」のようなものを背負った中心(中間)にいたのかと思います。
実際に紙面をみても「対支非干渉を要求し中國革命を完成せしめよ」(『日本労農新聞』1927・6・1)といった記事における日本の軍閥批判や反帝国主義的な主張は、もちろん中間派だけの主張ではないですが、当時社会で一定支持があったのだろうと思います。
(残念ながら昭和10年代という時代において、歴史は異なる道をたどってしまいますが。)
戦後の社会党などの歴史も含め、本企画が今後の研究や検証に資することを版元としても願っております。